昭和五十六年六月二十八日 朝の御理解
御理解第十節
神が社に入っては、この世が闇になる。
天照大神様が天の岩戸にお隠れになった。それこそこの世は闇になってしもうた。そん時に神々様が様々に工夫をして、それこそおもしろおかしゅう、天戸のいや、岩戸の前で踊ったり音楽を鳴らしたりしてなさったという話がございますね。そしてあんまり外が騒々しいから何事があっておるだろうかと思うて少し向こうから戸を開けられたときに、力御命ですかね、大変力自慢の神様が天の岩戸を開けて、そして天照大神に外に出て頂く事を願われたというまあお話がございますよ。
私は今こそ、この世は今、闇の世だとね、もう寒天危地の世だと、寒い天危うい地ということです。もう地球上に、これは私が数年前に頂いたお知らせですけれども、死相が現れておると、地球上にというようなまあ、厳しいことを頂いた事がございますが、今こそ世の中が闇の世である。
そこでここで本当に力を持っておる者が、心を合わせて運命共同体大同団結といったような、合楽で言葉を使いながら、御理解を過去に頂いた事がございますが、今こそ真の信心をさせて頂く者は、この天戸開きをおかげ頂かなければ鳴らない時ではなかろうかと、いうように思います。ね。
為にはどうしてもお互いがね、いうなら、大同団結させて頂く事のために、また力を頂く、力のない者がいくら集まってもそれは烏合の衆に過ぎない。力を頂いておる者が、いうならば、合楽に御神縁を頂いて、おかげを受けておる人達は何かそういう神様の大きな願いがかけられておるような気がするんですね。
いわゆる、合楽理念といわれる理念を基づけば誰しも徳が受けることが出来る力を受けることが出蹴るというのですから、しかも、人間が人間らしゅう生きながら、なそうと思えば誰でもなせれる、一心発起さえすれば、誰でも出けるね、人間らしいと云うて、いうならば、昨日からも申しますように、ここで修行させて頂いとって、朝の御祈念にもでらん、それが眠かけんで寝とるとだとこういうたらそれまでですね。
そこん所をです、私は人間らしゅうと言うところに、あのう本当に人間らしゅう頂かせて頂くことのために修行せんならん。飲んでもよい、食べてもよいと云うて、飲み過ぎたり食べ過ぎたり、そういうことが自由であるというものではない。人間が人間らしいということは、人間にはそれそれ良心というものがあるのですからね、良心に基づいた生き方。それをまあ、過去においては、私は昨日ある禅宗のお寺さんのお坊さん達の修行の一日をテレビで見せて頂いたが、大変な事だなぁと思うて見ました。
成る程、まあ、人間は妙なもんですね、その何というでしょうか、きざなとでも申しましょうかね、あんな事を好きな方がありますよね。座禅を組んでみたり、その雰囲気が、私共のまた好きです。けども金光教の信心はあのう、そういう普通の人間では出けないような修行せんならんということではないのですよ。粥食二食。しかも薄い粥が出せれるだけ。それで托鉢に出る。托鉢に出ると御信者の家の托鉢を受けてお昼頃には準備がしてあるところが、そこで出るおご馳走というものは全部平らげてしまわなければならない事になっておるそうです。だからおごっそうが沢山出ける時には、無理して食べるもんだけんで、たれかぶったり、吐いたりするそうです。おかしいでしょうがね。
その事から云うても、そりゃ、もうなんとはなしに、雰囲気がいいですね。過あっとこう座禅を瞑想に耽ってね。だからやっぱ好きな人がありますから、そげんとは好き者に任せて、とんでもない宗教仏教の一派ですけれども有るもんだとこう思わせてもらったが、そういう意味を思えば思うほど、お道の信心の素晴らしさ金光大神のいわば信心というのが成る程、前代未聞の宗教であるなあ、本当に人間が人間らしゅう助かっていけるそういう助かりを受けて、いよいよ今の世のいわゆる天戸開きをさせてもらわなければならない時だという位な、ひとつ責任というかね、合楽に御縁を頂いたひとつの責任、為にはいよいよどういう信心さしてもらえば、力が頂けるか、どういう信心によれば人間が助かるか。
しかしまあ、この世は苦の世苦の世界、思うようにならんのが浮き世といったような観念をかなぐり捨てて、それこそ夢にも思わなかったようなおかげの展開がなされるんだ、それが頂けるんだという実証をしていかなきゃいけません。実験実証、ただ目先の事をお願いした、おかげ頂いたで繰り返す信心では相済まんね。
私がおかげ頂いたのはどういうところから、今日のおかげになっておるかとね。私もいうならば、戦争中、いわゆる生まれて数十年、三十年あまりというものはやっぱ信心頂いとりましたけれども、ただおかげに終生した信心であったね。それが本当な事が分かり出して、神様にいうなら心が本当に向いてきた。ね。
所がそれこそ置いた物をとるようなおかげを頂いておった商売の上にも、おかげ頂いておったけれども、それが反対に、右と願えば左、左と願えば右というようなもう、どうにも出けない所に行き詰まった。借金は増えて行くばかりであったという事になった。
私はその事を今朝からちょっと思わせて頂きましたら、真の喜び、z真喜と頂いたんです。真という字と喜びとね、私がおかげを頂いたのは、一番なんと云うても、その真の喜びが私の心に芽生えてきたことです。信心しておかげを頂いて有り難いなあとこれもやっぱり喜びでしょうけれども、それが果たして真の喜びかどうかは分からん。
私は真の喜びというのは、不如意なとき、自分の思うようにならない時、今の合楽理念を聞きゃ、すぐ心が開けたでしょうけれども分からない。それこそ手探りに信心さしてもらっておるのですから、あらゆる修行もしてみた。先覚先輩の先生がなさったという修行は、表行は一通りはしてみた。それでもおかげは頂けなかった。
所が信心の喜びは段々募っていった。その時分に、元の久保山豊先生が、その同時から、私の話をどこんでもこう聞きに見えておった。私は喜びいっぱいのお話をする。それも本当に食べるに食なし、着るに衣なしの時代ですよ。お話が終わると「ほんなこつ大坪さんそげんああたは有り難かですか」といわれておりました。嘘じゃなかったです。どこからあの喜びが頂けておっただろうかね、私は思うのはこの世で一番何が難儀と云うても、借金のことわりくらい、難儀な事はない。
これは私が通った、病気も死ぬるか生きるかと言うような所を通った人は本気ほど、と言うかもしれません。人間関係でも自殺でもしようごたるという人は、人間関係くらい苦しいことはないというでしょう。私は経済の面で苦しみましたから、もう金のない程、この世で難儀なことはないとこう思うておりました中にですね、私の心の中にこりゃ、神様がね、末は横綱か大関かというくらいな願いをかけておんなさるばいと、ね、だから神様が鍛えに鍛えてくださるなあ、という風に分からして頂きだしたら、今まで苦しかったこの世の苦しみとは、この事だろうと思う、その苦しみがそれこそ苦しみでなくなって、意気揚々と借金のことわりにでも行けれるようになったね。今から思うて見るとそういう不如意な時にです、私は御神願を悟らせてもらい、神愛を悟らせてもろうて、それに応えまつる心は喜び。その喜びこそが、いうなら真の喜びというのではないでしょうか。 私が今日おかげを頂いたのは、本当に難儀困ぱくしている中を、神様に一生懸命苦しい苦しいでお縋りしておかげを頂いてきた道とは違う。その苦しい中にいよいよ喜びを分からして頂いた、それこそあの時分、私が正義先生が今朝もこうして参って来ておられますが、正義先生なんか、久保山先生、秋永先生なんかは、その時分から私とのいうなら信心友達でした。
それこそ大坪さんの後にゃ、後光がさしよると人が、信心のない人がいうくらいでした。いうなら破れ服に破れ鞄下げて、破れ靴はいて歩いておるそれに、そういう何かがあった。
あの人は違うばい。私の妹が善導寺の殖産会社に勤めておった。私がちょいちょい善導寺の町を大城の方から渡って教会にお参りに福岡から帰って来ますと、いわゆる歩いて帰ります。そこの所長さんが私の妹に「ちょっと池尻さん、前ば通っている人ば見てんなさいち。あの人はいつも思う、あの人はただ人じゃなかばのち」まあいわれたという話が残っております。いいやあれは私の兄でございますというて、びっくりされたということです。ね。
そういうま、とにかくです、人から同情されるような修行じゃダメです。それが生き生きとしたもの、それを今、合楽理念に基づくとです、誰でもそこん所にすーっと入っていけれる手だてが、説いあるでしょうがね。
例えば先日から頂きます、あの悲しいという字を分解して心に非ず。一番悲しい事は子供が親のいうことを聞かん事であったり、自分の思うようにならなかった時ほど、悲しいことはないのだけれども、これはもう浮き世だから仕方がない、この世ではもうままにならぬのが、当たり前の事のように、そこに落ち込んでしまっておる人が多いです。あきらめムードです。
そういうときにはです、いうならばならずもと思うようにならない時程、いうならば夢にも思わなかったようなおかげの頂けれる前提として、お礼を申し上げて行けと、これは私が体験しとるから、はっきり教えられるわけ。その御理解を頂いたときもそうでした。その悲しい事こそ、辛いことこそ腹の立つような様々な不如意な時は、私共は、もうこの世はままにならぬのが、浮き世と思うとるけれども、そんな壇じゃない。この世はもうそれこそ信心によって心ひとつで夢にも思わないようなおかげの頂けれる世の中なんだと。その為には修行だと分かったら、その思うようにならん事にお礼が言えれる心の状態を開けというのです。 それをそんなら、その人その人に個人教導があるわけ。ね。その時その時にあらゆる角度からいうならば、そこの所を開かせて頂く、御教えをおるわけでありますから、その構え姿勢を作ってからでなからなければ、それを実験実証するという意欲が湧いてまいりません。ね。
結局いうならば、おかげを頂いて有り難いも有り難いでしょうけれども、その反対の時にも、喜べる、いわゆる本当の喜びというのは、そういう神の心が分かって喜ばせてもらうのである。それが真の喜び。その喜びが今日の合楽の土台になっておるんだということでございます。ね。
そういう私は信心を頂いた人こそが力を受けて行くんだと、そういう人達が大同団結ですね、いわゆる運命共同体。例えばここの修行生の方達なんかは、私と運命を共にしようという人達なんです。そういう人達が一人一人力を受けてですそれこそ天の岩戸開きをさしてもらわなければならない。
寒天危地、それこそ歓びの天喜びの地とあります。を変えて行く、それにはどうしても天地との調和を保つだけの事じゃなくて、天地との交流である。天地と交流しあえれるそこから生み出されてくる所のおかげによらなければ出けません。 そういう意味で合楽に御神縁頂いている一人一人がです、そういう自覚に立って真の信心を身につけていきたいと思うですね。 どうぞ